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幻灯島、西へ

月下の野戦・第一弾    原作/ 野崎六助   

作・演出/ 桜井大造

1994年 8月  東京-立川・南千住・立川

いくたびかの浄化(クレンジグ)をへて
なお 街は とび散る血の噂を待ちうけていた 
千日の雨と 千頭の牛馬が 耕さねばならいほどに
すでにヒトは 乾涸らびた荒地なのに
配給されたのは コップ一杯の水だったのだ

動く必要があった
血のクレンジングを待ちわびる街路を抜けて
極東の街のさらに東のはてにある人工の島へ
拾いに行く必要があった あの幻灯(ゲットー)の島へ
陽画フイルムの中で朽ちてゆく 千態の野戦を-
“沈黙”こそが酸素である 

 桜井大造

世界の激動”が街の喧噪に融けて踊れば踊るほど、天底にうずくまる者たちの“沈黙”は濃度を増してゆく。
 その存在さえ忘れさられるほどに、“沈黙”は頑として、暗闇の裏側にしなっていくのだ。だから暗闇は“沈黙”を吸気して、極限みまでその質量を高めてゆくだろう。
 “野戦”が開始されよう。それは、局面では抵抗であるが、全体世界を獲得する以外にないにという道筋においては、復元である。粒立つ濃密な暗闇は“沈黙”を酸素として、呼吸し、火を焚き、復元へと向かうはずだ。

 〈野戦の月〉は、今年3月末に解散した“風の旅団”のメンバーの一部を中心として結成された集団である。同様の成り立ちとしては、すでに〈独星火〉がある。
 ’94年夏・東京の3地点に立つ穹廬(テント)にて、お目にかかりたい。
西新宿の巨大な墓石    野崎六助

  「東京都による野宿労働者の叩き出しを許さない!」4・10集会は、新宿駅西口のエルタワービルで貫行された。高層ビル街の駅側からの入り口に位置するビ ルの12Fのホールを借り切った集会はいかにも異様なコントラストをつくって、啓示的だった。高層ビルのいくつかはまがりなりにも開放されたものもあれ ば、一部企業ビルのように部外者を一歩もいれない厳重なガード体制をとっているものもある。この一帯から〈合法的〉に追放された労働者たちの集会がこうし たビルの一室を高価に借り切って貫徹された効果はなかなかの見物だった。会場からは眼下に百貨店や駅ビルの立ち並ぶ休日の喧騒をとらえることができた。あ るいは、死んでいるのはこのにぎわいの街を多忙にかけていく一般市民たちであるのか、それとも巨大な墓石のようなハイテクビルに一室で資本主義社会(エイ リアン・ネイション)の断末魔に追い立てられることへの抗議を声にした野宿者たちであるのか。
   
野戦の月の前身となるのは、1982年10月から1994年3月まで活動した「風の旅団」である。

旗揚げ『幻灯島、西へ』。1994年8月東京3カ所で公演を行う。
「風 の旅団」元メンバーである桜井大造がプロデュース。桜井の呼びかけに応じて、元風の旅団の香乃カノ子、伊牟田耕児、清水浩一郎、根岸良一、鷺宮テル子、寺 川努、水畑功、森美音子に加え、ばらちづこ、舞踏家の岩名雅記、え~りじゅん、スリランカ人K・ロハンが役者として参加した。

原作には評論家でもある野崎六助を迎え、脚本・演出に桜井大造。
舞台監督・村重勇史、照明・ソライロヤ、音響・新井輝久、舞台美術/宣伝美術・元風の旅団の宮明夫が担当した。
音楽・、大熊亘、桜井芳樹、関島岳郎、中尾勘二、久下惠生、西村卓也、さこ大介。

 

バンブーアーク 阿Q之陣

月下の野戦第二弾  作・演出 桜井大造
1995年8月 東京・中野    10月 小倉 広島

暴風か!? 預言か!?
  沈黙の火ぶたはきられ、
 阿Qたちの継ぎ接ぎのことばは、
あなたの横隔膜に共鳴して唄となる・・・。

Qを巡って・・・

人の移動についてUターンやJターンと並んでQターンという現象がある。大都会を経て生まれた故郷に戻ったヒトが、そこからまた近在の都会へと移動するこ とを指すらしい。このQターンを空間的にではなく時間的にとらえれば、ヒトというのは円還する時間O(オー)の外側に失速して飛び出したQの右端の点であ るとの無手勝な解釈ができる。つまりヒトの中にあって歴史とはQターン現象を呈するのだ。“個人はいつも古くさく、時代だけが新しい”といった嘆きや“時 の流れに身をまかせ・・・”と唱うときの何とも共感を誘ういぎましさが“Qとしてのヒト”を証しだてているよに思える。
 さて、しかしながらこの芝居に登場するのは、処世訓や人生論をカタツムリのように背負った“Qとしてのヒト”ではない。もともと時間Oを持たぬモノ、Qのしっぽ部分だけの存在、時間の巻貝に潜み逆ねじを食らわす、“逆Qとしてのヤドカリ”-阿Qの出番だ。
 いくどとなく歴史からつまみ出され生地から追放された阿Qたちは、だからこそ翻って、いくどとなく誰かさんのQを盗み、それを引きずり廻して渉猟し続ける。私らのバンブーテントもすでに彼らに盗まれて阿Qの陣中にあるのだ。
1995年からは、プロデュース公演をやめ、ゆるやかな集団性をもった持続的なテント劇集団となる。

1995年7月、『バンブーアーク・阿Qの陣』を東京中野駅北口に従来の単管パイプのテントではなく、竹組みによる特設テントでの公演。

役者・香乃カノ子 ばらちづこ 伊東六八 桜井大造 

清水浩一郎 根岸良一 伊牟田耕児 伊井嗣晴 山内淳 古崎くるみ 左武狼

舞台監督・村重勇史 舞台美術・宮明夫 照明・ソライロヤ 音効・新井輝久 舞台協力・遠藤弘貴 

制作・押切珠喜
音楽・大熊亘 久下恵生 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 中尾勘二 西村卓也 吉野繁

広島、北九州では「広島野戦の月」「北九州野戦の月」がそれぞれ結成され、制作・バンブーテント設営を担当し、10月に広島、北九州小倉でもバンブーテントにて公演を行う。

インフォーマルセクター 眠りトンネル
月下の野戦 第三弾 作・演出 桜井大造
1996年11月、東京南千住
    

東京の地下--祈りの重なる実用トンネルの隙を縫って
スリーパーと呼ばれる秘密の隧道が横たわる・・・
10年ぶりに再開される密猟者たちのジオトピア計画
無数に分岐していた眠りが 通信を再開し 結託して
ピンナップされた10年の夢を醒ます・・・・

暴風か!?預言か!? 月下の野戦第三弾 インフォーマルセクター・眠りトンネル

役者・ばらちづこ 伊井嗣晴 伊牟田耕児 桜井大造 根岸良一 リュウセイオー龍 香乃カノ子 伊東六八 甲斐靖 清水浩一郎 沙蘭(サラン)南(ナム) 新妻康平 

青波楽太郎

舞台監督・村重勇史 舞台美術・宮明夫 長友裕子 中山幸雄 照明・ソライロヤ 音効・新井輝久 舞台・大箭政邦  遠藤弘貴 男沢由香里 坂山幻馬 衣装・豊福教子 古崎くるみ 制作・押切珠喜 水畑夏子 山内淳 

左武狼
音楽・大熊亘 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 久下恵生 中尾勘二 西村卓也 吉野繁
 

眠りトンネル  万緑叢中 酔生夢死篇 
作/演出 桜井大造
1996年 8月北九州・広島 9月東京南千住
   
前のヒト・・・夢を背負い・・・泥濘を漕ぐヒトよ・・・
君の夢に・・・もう届くだろう・・・10年前の矢弾・・・
背中のヒト・・・沈黙する・・・赤児の叫びよ・・・
もうすぐ着くだろう・・・君の小さな黒い口腔・・・その出口に・・・
いま・・・眠りトンネルをわたるのは・・・
暴風か!?預言か!?
前年の芝居をさらに深化させ、「北九州野戦の月」「広島野戦の月」共同で、北九州・広島・東京3地点での公演
役者・ばらちづこ 香乃カノ子 伊井嗣晴 伊東六八 甲斐靖 木曽大介 桜井大造 清水浩一郎 根岸良一 

リュウセイオー龍 沙蘭(サラン) 南(ナム) 遠藤弘貴

舞台監督・村重勇史 舞台美術・宮明夫 長友裕子 

中山幸雄 照明・ソライロヤ 音効・新井輝久 衣装・

豊福教子 舞台・小夜子 シュウブン 制作・押切珠喜 

水畑夏子 田口清隆 山内淳 古崎くるみ 伊東六八 

竹本幹 
音楽・大熊亘 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 久下恵生 中尾勘二 西村卓也 吉野繁

 

 EXODUS  出ポン・前夜
 作/演出 桜井大造
1999年 6月東京南千住

夜だった。遠く一揆・逃散の荷車の音が聞こえる夜だった。
球形のキャンプ地では、いくつの携帯用の夜が集い、競い合って記憶を鳴らしていた・・・・・
 どうやら「痛み」は消えることだないようだ。大きな世界の「痛み」は、小さな世界に住む私らの皮膚に感受されて、夜、それぞれの、「痛み」を脳に伝える。おそらく、この「痛み」に抗うことはできない。すでに、「痛み」は私らのものである。
 「痛み」とは「記憶」の原石である。時間の配列には従わない、いくつの「痛み」が、ぶつかりあい、こすれあいながら、「記憶」を研く。
 こうして、夜、私らは「記憶」のなかに抱えられる。
 Exodusとは、旧約聖書の「出エジプト記」のことだ。ボブ・マーリーにも同名のアルバムがある。救済の希求に、いずれも、「神」が介在する。
 この芝居の「出ポン」には、「痛み」が介在するだろう。「痛み」からの脱出ではない。その意味で救済は予定されていない。

野戦の月約2年ぶりの新作公演。新たな木製特設ドームテントでの公演。テント設計は遠藤弘貴、劇団メンバーによって製作された。

役者・ばらちづこ 香乃カノ子 豊福教子 伊井嗣晴 伊東六八 甲斐靖 高野信 桜井大造 清水浩一郎 根岸良一 リュウセイオー龍 沙蘭(サラン) 南(ナム)
楽士・大熊亘 坂本弘道 木暮みわ

舞台監督・村重勇史 照明・ソライロヤ 音効・新井輝久 衣装・豊福教子 舞台・中山幸雄 田中明 シュウブン 長友裕子 制作・押切珠喜 水畑夏子 山内淳 

古崎くるみ 伊東六八 竹本幹 

音楽・大熊亘 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 久下恵生 中尾勘二 西村卓也 吉野繁 川口義之 坂本弘道

EXODUS   出核害記
作/演出 桜井大造 

1999年 8月 台湾 三重市淡水川河川敷

野戦の月初の海外公演。8月14、15日の2日間、台北市と三重市の間を流れる淡水河の河原に於いて特設テント公演、台湾の「差事劇團」との合同で上演を行った。

役者・ばらちづこ 香乃カノ子 豊福教子 李薇(差事劇団) 伊東六八 甲斐靖  桜井大造 清水浩一郎 

根岸良一 リュウセイオー龍 沙蘭(サラン) 南(ナム) 
舞台監督・村重勇史 音効・押切珠喜 衣装・豊福教子 舞台・遠藤弘貴 中山幸雄 田中明 シュウブン 長友裕子 制作・押切珠喜 水畑夏子 山内淳 古崎くるみ 

伊東六八 竹本幹 

音楽・大熊亘 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 久下恵生 中尾勘二 西村卓也 吉野繁 川口義之 坂本弘道

EXODUS
 作/演出 桜井大造
1999年 10月 北九州・広島 11月 東京

阿Qクロニクル-罠と虜
作/演出 桜井大造
2003年10月・11月 東京東小金井
                            

夜だった。遠く一揆・逃散の荷車の音が聞こえる夜だった。
球形のキャンプ地では、いくつもの携帯用の夜が集い、競い合って記憶を鳴らしていた・・・・・

亜 熱帯八月の猛暑、台湾台北北公演のテントは、台北市の西を流れる淡水川河川敷(三重市)に設営された。舞台装置、美術、照明は現地において製作。すべて台 湾の芸文中心劇団「差事(アサイメント)との共同作業である。「差事」からは役者として李薇が参加し、アロン役(東京版では伊井嗣晴)を演じた。連日のス コールによって舞台面が泥濘と化したのは、東京公演と同様である。

東アジアの中枢から舞い戻り、この晩秋、再び東アジアの辺境にテントをたてる。
夏の台湾公演を終えてすぐの秋、北九州・広島・東京3地点連続公演。台湾差事劇団から李薇 陳憶玲 段恵民 郭孟寛らが旅に同行参加した。

役者・ばらちづこ 香乃カノ子 豊福教子 伊井嗣晴 

伊東六八 甲斐靖 桜井大造 清水浩一郎 根岸良一 

リュウセイオー龍 沙蘭(サラン) 南(ナム)

李薇(差事劇団)
楽士・ 大熊亘 坂本弘道 木暮みわ 

照明・ソライロヤ 池内文平 音効・新井輝久 

衣装・豊福教子 舞台・村重勇史 中山幸雄 田中明 シュウブン 長友裕子 制作・押切珠喜 水畑夏子 

山内淳 古崎くるみ 伊東六八 竹本幹 

音楽・大熊亘 小間慶大 桜井芳樹 関島岳郎 久下恵生 中尾勘二 西村卓也 吉野繁 川口義之 坂本弘道

阿Qゲノム
作/演出 桜井大造
2002年 10月 東京東小金井

阿Qは実在しているが世界の中で表現されない。
阿Qは「ヒトノゲム解析」によって析出されない。
阿Qは世界の対象とはならない。
阿Qは世界を表現しない。
阿Qは世界を解析しない。
阿Qは壊れた世界だけを対象とする。

阿Q型ピープルは、何事も忘れやすく現実容認的である。動物的でいわば「単純系」なので、社会システムのデータベースの一番下の階層に置かれている。数量ばかり多いが、システム理論の対象としては時に無視してかまわない項目だ。
 かって魯迅が無慈悲なほどに阿Q型ピープルを追いつめる物語を考案したとき、処刑される寸前の阿Qは彼の魂に噛みついているもう一つの阿Q型ピープルを発見する。
 魯迅の絶望的な希望は自立することのない阿Qが、もう一人の自立することのない阿Qの噛みつかれることで、恐怖感とともに自立することだったのだろうか。
 この自立は、主体的な個「1」への文学的希求ではないだろうか。
 だが、阿Q型ピープルにいこのような「1」という城塞を築くことができるだろうか。
 「0」という自己喪失の寸前に他者を発見することで「2」へと逆流する。数字的にいえば、彼は0から2の間で実数のどれかであり、しかし自然数では書き表すことのできない無理数の道ををさまよっている。
 阿Q型ピープルの絶望的希望は、むしろ「1」という城塞を築けないことにあるのではないか。それは「1」という牢獄も持たないということでもあるのだから。

集団名を「野戦の月=海筆子」と改め、約3年ぶりの新作公演。台湾から役者として許雅紅 段恵民を招き、木製ドームと従来のパイプ構造のテントを合体させた特設大テントでの上演。

役者・ばらちづこ つくしのりこ 森美音子 

許雅紅(台湾) 段恵民(台湾) 伊井嗣晴 甲斐靖 

桜井大造  根岸良一 鈴木哲広 リュウセイオー龍  

舞 台監督・村重勇史 照明・池内文平 陳憶玲 音効・新井輝久 衣装・おかめ 田口ナヲ 中山智絵 寺田綾子  舞台美術・若佐ひろみ 長友裕子 中山幸雄  小林純子 水畑夏子 舞台・小夜子 浦崎直樹 制作・陳憶玲 

光延晶子 村重勇史 押切珠喜 山内淳 古崎くるみ 

翻訳・字幕・林于竝 小野澤潤 通信・ 濱村篤

音楽・原田依幸 石渡明廣 望月英明 野崎正紀 

堀切信志 島田正明(録音)
 

 

阿Qクロニクル--罠と虜

 台北のダウンタウンにある「龍山寺」という道教寺院の境内では、日がな一日老人たちが群れをなしてたたずんで いる。そのほとんどが蒋介石国民党の元兵士だ。何をするでなく、ただ一様に押し黙って立っている。参拝客で賑わう境内を眺める鈍重なまなざしは確信的とも いえる強度を感じさせるが、おそらく何を見つめているわけでもない。彼らは「何か」を待っている。そしてその「何か」は決してやってこないことも知ってい る--そう思われる。雨の日は、寺院の前にある「マクドナルド」の2階に、この<しじまの群れ>は亡命する。
 例えば、ある老人のクロニクルはこうだ。
  なかば強制的に国民党軍に召集され抗日戦争を耐え忍んでも、なお中国大陸に「戦後」はやってこない。国共内戦のさなか、共産党軍に捕らえられ<虜>とな る。そしてほぼ強制的に中国人民志願軍に志願させられ「朝鮮戦争」に参戦する。北部朝鮮の塹壕で米軍に捕らえられ、二度目の∧虜∨となる。ちょうど50年 前、400万人の死者を生け贄に「朝鮮戦争」は休戦。捕虜交換のさい、彼は故郷のある大陸へではなく、位置すら知らない国民党統治下の台湾への帰還を希望 する。大陸に戻れば「労働改造」という名の収容所暮らしが待っているだけだ。台湾では「大陸反攻」の時節を待つ軍隊の底辺部に編入され、やがて退役いまは 福祉施設に暮らす。
 この現在まで、彼(ら)の存在と、<社会的現実=世界>をつないでいたものは、<戦争>のみである。<戦争>だけが彼らの存 在に明瞭な位置を与えてきた。「敵」を待つこと、殺すこと。彼らは塹壕を掘り罠を仕掛けて敵を待つ「蟻地獄」だったが、実のところ、蟻地獄の<罠>には まった「蟻」でもあったのだ。
 軍服をはぎとられ<戦争>を奪われた彼らは、もはや「蟻地獄」でも「蟻」でもない。いや、こういうべきか。彼らは もはや一匹たりとてやってこない蟻を待ち続ける「蟻地獄」であり、蟻地獄のいない穴に落ち込んだままの「蟻」でもある、と。いずれにせよ、彼らは<世界> がシャベルをふるい、とうの昔に忘れさった<戦争>という穴の一つに置き忘れられたのだ。その穴から、彼らは必ず毎日、薄羽蜻蛉のように寺院の境内に参集 してくる。<世界>がその存在を見落とすほどに不明瞭な<しじまの群体(軍隊)>となって。
 おそらく、彼らは私らの詮ない先達であり、「20世紀の父」であった。

私らの阿Qは、この<世界>の中では、どうにも自身を明瞭に感じることができない。だとすれば、<世界>など何の意味もありはしない。むしろ、余分なのは<世界>の方なのだ、と阿Qは考える。
  彼はたしかに<世界>の掘った無数の穴の周縁におろおろと実在しているだけだが、どこかの穴に所属を求める気はない。なぜなら、<世界>は砂漠のようにあ まりに単純で、存在の機微というものがまるでわかっていない、と阿Qは感じるからだ。<世界>が迷路のように見えるのは、「敵」に対してあまりに無造作に 「蟻地獄」が掘られてきたからだけだ。たかだか蟻地獄あるいは「地雷」に存在の機微がわかろうか。阿Qは自身がこのような<地雷原の虜>であるのは承知し ているが、<地雷とともに虜>であることに同意しない。
 阿Qが書き損じたクロニクルは、編年的なものではない。彼は自身がすでに吹き飛ばされた <死体のようなもの>であると感じている。それは彼の過去の姿でもあり彼の未来の形でもある。彼の中ではこの2つの時制は一つであって、それはいわば50 年かけて50年前にたどり着くような<前未来>という時制の言葉で書かれるはずだった。
 この<世界>の中に記されることのなかった阿Qのクロニクルは、予兆と記憶を二つで一つにはらんで、この今、私らとともにある。
役者・桜井大造 根岸良一 ばらちづこ 森美音子 

遠藤弘貴 つくしのりこ伊井嗣晴 石谷時計 

許雅紅(台湾)段惠民(台湾)リュウセイオー龍

舞 台監督・村重勇史 舞台美術・長友裕子 中山幸雄 

舞台・小夜子 永田修平 照明・池内文平 青木 舞 

音効・新井輝久 衣装・つくしのりこ 寺田綾子  おかめ みほ 田口ナヲ 中村仁美 榊原南 仮面・小林純子 蜘蛛の巣・花上直人 舞台協力・若狭ひろみ 伊牟田耕児 高山知香枝 アイ しもちゃん め め 大場吉晃 WAKAME 伊藤茂 森温 ヒトガタ幕・黒谷都 松沢香代 加藤知子 中国語翻訳・楊 青芳 洪海 朱さん 小野沢潤 通信・濱村篤  制作・甲斐靖 押切珠喜 國貞陽一 阿久津陽子 板橋祐志 竹本幹 光延晶子 山里順子 山田零 古川壽彦 映像・田中明 木乃久兵衛 

音楽・原田依幸 野戦の月楽団/桜井芳樹 大熊ワタル 小間慶大 川口義之 坂本弘道 関島岳郎 中尾勘二 

吉野繁 


 

野草天堂 海峡と毒薬  Strait and Poison
作/演出
 桜井大造

京王線八幡山駅そば高井戸陸橋下特設テント

2006 6/01(木)02(金)03(土)04(日)

05(月)

こ の芝居は今年2月に台湾で上演された『野草天堂・スクリーンメモリー』と対を成すものだ。『スクリーンメモリー』は台北市近郊にある「楽生療養院」と台北 市の中央にある国家戯劇院(台湾の国立劇場)の2カ所で行われた。「楽生院」は日本植民地時代の1930年に、日本政府によって設立されたハンセン病の隔 離施設である。小高い丘に百棟余りの医療施設、療養者住居、福利施設、納骨堂などが散在しており、現在は隣接した新病院への移住者も含めて300人弱の療 養者が暮らす。この数年、地下鉄工事のために「楽生院」の解体を迫る台湾政府・台北市政府に対する療養者の抵抗運動が続いている。すでに半分ほどの建物は 解体され、丘陵も両側から削り取られている。
私たちが上演した場所は「中山(孫文)堂」という集会所の中である。隣に笹川良一が寄贈した「笹川紀念館」、すぐ真向かいの旧病院の長い廊下をたどれば貞 明皇太后(昭和天皇の母)が恩賜した「消毒室」に行きあたる。日本人の過去の宿業がうずくまる一一というよりはこれ見よがしに屹立する空間だ。ここで芝居 を立ち上がらせようとする自分もまた、この宿業の列に並んでいるのだ、という居心地の悪さは禁じえない。とはいえ、療養者の乗る電動車が居並ぶ前で芝居が 立ち上がっていくさまは、やはり感動的だった。
翌週、舞台を国家戯劇院に移動して上演した。楽生院の療養者にとって、国立劇場で芝居を見物するなどという居心地の悪さは並大抵ではなかったろうが、多くの療養者が私たちの招きに応じてくれて、台湾政府の誇る高級文化施設の観客席を占めてくれた。
劇中、「野草天堂」は台湾のとある療養所の名前であった。60年前に日本から移管された療養所であり、毒殺された日本人の元院長の亡霊に悩まされていると いう設定である。これはそのまま「楽生院」を指示してしまうのであるが、当の療養者を前にしてこのような設定を捏造して、その歴史に介入しようとするの は、不遜以外のなにものでもない。だが、居心地の悪さに耐える、などという上品な構えではいつまでも宿業の列を乱すことはできないと考えた。乱れた列の 端っこに私らの芝居は居場所を見つけたように思う。そこは実は、墓地や納骨堂に隣接した場所であった。私らの芝居にとって、死者とは隣人であり乱れた宿業 の列の外部に居てそれを眺める観客でもあった。
楽生院の納骨堂に飾られていた、死してなお帰る故郷を持たない療養者たちの写真64枚を国立劇場の私らの舞台に招請したのも、私らの不遜である。

久々に東京でテント芝居をすることになった。参集をお願いしたい。

演員
ばらちづこ 根岸良一 森 美音子 つくしのりこ

伊井嗣晴 鈴木大介 許 雅紅 李 薇 段 惠民

 

アニグラカサネ リュウセイオー龍 桜井大造

 

舞台監督

 村重勇史
舞台美術
 長友祐子
 中山幸雄
 岩佐ひろみ
舞台
 遠藤弘貴
 永田修平
舞監助手
 林 欣怡
照明
 2PAC
音効
 新井輝久
衣装
 おかめ
 つくしのりこ
 田口ナヲ
翻訳
 宗田昌人
 胡 冬竹
 林 于竝

通信
 濱村 篤
 池内文平
 水野慶子
記録
 田中 明
 佐々木 健
印刷
 山猫印刷所
制作
 押切珠喜
 阿久津陽子
 茂木 遊
 板橋裕志
 秋山みどり
 具 聖牧
音楽
 野戦の月楽団
 原田依幸

協力
 差事劇團
 台湾身体気象館
 独火星
 黄蝶南天舞踏團
 韓国アジアマダン
 楽生ハンセン病療養院大樹下行動小組
 「山谷」制作上映委員会
 竹内好研究会
 広島アビエルト
 国立木乃久兵衛
 北九州ねこや
 辛苦之王出版社
 プーロ舎

変幻痂殼城(へんげんかさぶたじょう)
作/演出    
桜井大造
京王線八幡山駅そば高井戸陸橋下特設テント
2007 7/11(水)12(木)13(金)14(土)15(日)

痂殻の下、惨い傷跡が、ある――にせよ、そこが私らの領土である。

演員      
リュウセイオー龍
瓜啓史
崔真碩
伊井嗣晴
阿花女
つくしのりこ
山田博達
森美音子
ばらちづこ
桜井大造

舞台監督  村重勇史
舞台美術  長友裕子
     中山幸雄
舞台   永田修平
照明    2PAC
音効   新井輝久
衣装    おかめ
     つくしのりこ
     田口ナヲ
     新井香代
翻訳    胡冬竹
通信    濱村 篤
     水野慶子
イラスト   阿徳峰
宣伝美術  村重勇史
印刷   制作室クラーロ

制作    押切珠喜
     阿久津陽子
     板橋裕志
     プーロ舍
共同製作  台湾海筆子

音楽       
野戦の月楽団
原田依幸

お詫び
チラシに名前の掲載されている役者のうち、根岸良一とアニグラカサネは東京公演への出演が不可能になりました。根岸良一は病気療養のため、アニグラカサネ は新たな道をさぐるためです。代わりに新星 崔真碩(ちぇじんそく)が参加します。ここにお詫びし訂正します。

この芝居は、今年、台北(4月)、東京(7月)、北京(9月)という東アジアの三つの大都市で、〈同一の台本〉〈同一の舞台装置〉によってテント公演される。
 すでに終了した台北版「変幻痂殻城」は〈台湾海筆子〉企画で台湾在住の役者・スタッフによって行われた。北京語を基本として一部台湾語を使用した。
 現在準備されている東京版は、テント劇〈野戦之月海筆子〉の日本人役者・スタッフによって行われる。使用する台本は日本語で、基本的に台湾版と同一のものである。
 北京公演は、台北版と東京版の二つの芝居を同一のテント、舞台装置において3日間ずつ連続して行う。北京においても台本は、北京の観客の理解に役立つための最小限の変更はあるが、基本的に台北・東京での公演と同一である。
 三都市において、同一の台本、舞台装置であるということが、この芝居の特徴である。したがって、この芝居で設定される空間域は、これら東アジアの三つの 大都市の様態を複合化・抽象化したものとなっている。「痂殻城」とはその想像された大都市の貧民地区を意味している。
 また、この芝居においては時間帯もまた交錯している。たとえば、東京という視点からはすでに40年前の様相に思われることが、北京においては現在進行形 であったり、東京においては近未来的であるだろう様相が、すでに台北においては過去の姿であったりする。また、北京の過去の様態が台北の明日を予感させた りするのである。
「二都の物語」であれば、二つの視線の交差点に互いの様相が現れるだろうが、「三つの都」を想定すれば、交差する地点は時に溶け合い分割しがたいものとし て、あるいは時に無縁であるといったよそよそしさとして、観察者の感受性は瞬時に入れ替わざるをえない。観察者(観客・演者)は、自らの視点の中に、錯綜 する他者性を感ずるだろう。
 それは単に複雑なのではない。私らが居住している現実世界の時間帯、グローバル資本主義が強いる時間がすでにそれなのであり、その時間帯は歴史の消去に よってこそ成り立っているのだ。しかし、私らはたとえ破片のようなものであるにせよ、歴史を抱えている。消去されえないもう一つの時間帯を抱えていること は自明なのだ。破片となって分有されているに違いない時間帯が、テントという一つの場で紡ぎあい流れ出すかどうか。この芝居、三つの大都市での〈テント 場〉の狙いはそこにある。
 近年の東アジアの大都市の趨勢は、人間が住み生きる街(領土)の消去に向かっている。人間は「住む」ことから切り離され、経済圏のモザイクの孤独な単位 でしかありえない。それは、人間がその生において形づくる最低限の社会性すらが消えつつあるということだ。克服されるべき貧困・飢餓すらが、「脱領土化」 されたということだ。
 市場だけが唯一社会性を獲得していく。この市場の社会性が発信する情報に従い、人間はこの社会性にただただ柔軟に対処する以外にないのか。柔軟性のみが 社会システムに追従できる方策だとされるのだが、実はそれは不可能なのだ。人間は柔軟ではありえないからだ。
 市場の社会性を切断しようとする抵抗的な社会の発明は死活のテーマである。この芝居は三つの都市の陥落した底地に逃走することによって、あるいは自身の身体性(貧困)の様態を変幻させることによって、一夜の〈反世界〉を立ち上がらせようとするものだ。
 一つだけ日本の観客のために説明させてもらう。
 舞台は庚申(かのえさる)の夜である。庚申は旧暦(十干十二支)で60日に一度巡ってくる。この夜、人間の身体に住む三尸(サンシ)という赤い虫が身体 から抜け出し、その人間の悪業を月に鎮座する天帝に密告に行くと伝承されている。だから、この夜は三尸(サンシ)が抜け出さないように寝ずに自分の身体の 番をする。それは古来からの中華文化圏の伝承・風習だが、農村共同体にとって60日に一度だけ許される酒宴の夜でもある。それは共同体から逃亡者、密告者 を出さない黙契の場だったのだろうか。共同体を維持するための知恵だったのだろうか。日本各地に伝わる祭も同様な意図を持つものがあるように思われる。

 桜井大造

 

オペレッタ  
ヤポニア歌仔戯 阿Q転生

作/演出 桜井大造

東京 井の頭公園西園 特設テント
2008 11/1「土」2「日」3「月」6「木」7「金」8「土」9「日」

井の頭公園西園 特設テント
    --井の頭公園野外劇フェスタ2008
 

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上の眠りトンネルの

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北京にて                                  桜井大造


 10月、北京に滞在した折り、すでに上演前から話題となっていた「我門走在大路上」という演劇を観た。初演の日である。副題に「近三十年的社会心理史」 とある通り、文化大革命の末期から現在にいたる中国国内の社会状況を、二十一人の俳優たちの群像的な動きと会話、時折映写される当時の映像によって編年的 に表象していくスタイルの、いわば「構成演劇」である。
 編劇の黄紀○氏は、今世紀初頭以来、中国全土で数百回に渡って上演された問題作「チェ・ゲバラ」の作者である。筆者は昨年5月、韓国の光州でこの作品の 第二バージョンに出逢った。女性ばかり八人が登場するこの劇は、筆者が初めて接した中国本土の演劇であり、ある意味で衝撃的であった。もちろん、中国語の 科白も韓国語字幕も理解できない身であるので、この作品を正確に受容することはできない。したがって、誤読以下のただの感慨にすぎないのだが、あえて書き 記せば、その衝撃は当初、八人の女優たちのあまりに小綺麗な身体(身振りと発語の仕方)と、軽やかな演出手法からやってきたものだ。一切の泥臭さを排除し たその表現は、まるでコマーシャルフィルムの中にいるような快適さと不気味さを感じさせた。
 これが現代中国の最先端にある演劇表現であるとすれば、中国社会の消費社会化は予想以上の進展を見せているのではないか。消費社会化の中で、上昇感覚と 挫折感覚に激しく引き裂かれているであろう中国民衆の、その上昇感覚だけが女優たちの身体とそのスピーディな舞台から浮き出てくるようにも見える。だが、 さらによく目をこらせば、彼女らの足取りはかなり確かで重心も低い。単に浮遊しているわけではないのかもしれない。一見、何の変哲もないモダニズム表現の 身体としか思えないのだが、その影にじっと撓っている何かがあるのではないか。それは、民衆の挫折感覚であり中国型リアリズムの身体なのではないか。そん な気もしてくるのだ。
 先月の「我門走在大路上」は、同行した胡冬竹氏に通訳してもらいながら観ることができた。おかげで内容は多少把握できたのだが、やはり筆者が注目せざる を得ないのは、昨年以来、気にかかっていた俳優たちの身体のほうである。若い俳優が多いせいか、「歩く」ことを基本形とした俳優たちの身振りと発語は、昨 年以上に小綺麗であり、たとえれば黄河の泥水を繰り返し濾過したかのように明瞭である。昨年筆者が幻視したあのリアリズムの身体は、もはや劇場に入ること すら許されていないのだろうか。快適さと不気味さを二つで一つとして見物しているうち、ふと、フラットな舞台を三方から囲む観客席をながめてみた。そし て、はっとしたのだ。観客席のうす暗がりの中に、あのリアリズムの身体を見たように思ったからだ。観客たちの眼差しは一様に鋭いものだった。中国現代史を テーマとしているという衝迫力にもよるのだろう。現代史の記録と記憶の相剋に目眩きながら、しかしじっと瞳を凝らしているように思われる。やはり、それは リアリズムの目玉である。おそらく、この作品はそんな観客席の眼によって幾度となく噛み砕かれ、変容を繰り返し、昨年のあの作品のようにリアリズムを影の ように撓わせていくのではないか。俳優たちの小綺麗で明瞭な身振りと発語は、再び泥と交わって黄河にもどるのではないだろうか。演劇という行為をさらに行 動させ、本来の人々の居場所に帰すのはやはり観客なのである。筆者が北京のその公演で発見したのは、つまり「観客」であった。

 今年、台湾と日本で公演を持った筆者と仲間たちは、果たしてどのような「観客」と出逢ったろうか。その「観客」の眼差しは、私らの小さな行為をどの方向 に向けて行動させようとしただろうか。いや、逆にいえば、私らの芝居という現場は、「観客」を真新しく蘇生させることができただろうか。私らが用意した芝 居は「観客」を蘇生させるための媒介として機能しえたのだろうか。
 私らのいう「蘇生した観客」とは「消費者」のことではない。「民衆」のことである。私らの劇場は、記憶と記録の隙間から新たな「民衆」を析出することに よってのみ、本来の劇場となる。そして、その析出された「民衆」の眼差しに押されることによって動き出し、次第に消滅しつつ「現実」の中に姿を替えて再帰 するのである。
 

〈演員〉
阿久津陽子
伊井嗣晴
瓜 啓史
太田なおり
阿花女 
桜井大造
志衣めぐみ
崔真碩
つくしのりこ
ばらちづこ
森 美音子
山田博達
リュウセイオー龍
渡辺 薫

総指揮  根岸良一
舞台監督  村重勇史
照明   2PAC
音効  新井輝久
舞台美術  長友裕子
     中山幸雄
舞台  永田修平
     田口清隆
     遠藤弘貴
     松尾容子
設計  宮本泰成
衣装   おかめ
     つくしのりこ
     田口ナヲ

翻訳   胡冬竹
通信   濱村篤
     水野慶子
制作  押切珠喜
     金(門構えに言)愛
     高橋 梓
     張理香
     板橋裕志
協働単位 台湾海筆子
     北京テント小組
     広島アビエルト

音楽   野戦の月楽団
     原田依幸

版画
 黄栄燦 1945年作 
横地剛「南天之虹」より
題字  長友裕子
写真   陳又維
宣伝美術  村重勇史
印刷 制作室クラーロ

★協力
独火星
「山谷」制作上映委員会
竹内好研究会
国立木乃久兵衛
台湾辛苦之王出版社
 

 チベット仏教の「活仏転生」は、ダライ・ラマやパンチェン・ラマをはじめとするチベット社会の高僧たち が、死後49日以内に生まれ変わるというものだ。この「転生」は、そのままチベット社会の支配権力の問題であるから、その認定を巡っては熾烈な闘いが必須 となる。二人のパンチェン・ラマ騒動や、昨年中国政府が発布した<政府の承認なしには転生は許可されない>という条例、対する亡命中のダライ・ラマ14世 の「転生拒否」発言などがそれだ。
 最上層に君臨するチベット高僧の「転生」問題はともかくも、この芝居はそういった支配者間の過剰政治によって直截に生死を奪われる最下層の阿Qたち、その「転生」をめぐるものになる。
 とはいっても、最下層の人間に「転生」などあろうか? いったいだれが処刑にふされた孤独な魂の転生先など探すだろうか。いや、万一だれかが捜索したところで、しかるべき権威によって認定されなければ「転生」は果たされないのだ。
 魯迅老師が推量した阿Qの最期を、さらに邪推すればおおむね以下のようなものだろう。
 ーー彼を取り囲む目玉は、すでに彼の言葉を食い尽くし、彼の肉体をかみ砕いた上に、まだ執拗に彼に食らいついてくる。ついにそれらの目玉は一つに繋がっ て、彼の魂を咬みはじめる。「救命!」と声を出すかわりに、彼の全身全霊はその目玉ともども木っ端微塵に飛び散った。

 この最期は、近年私らになんらか関わりのある近隣地域に起こった数多くの「虐殺」の模様でもある。東京、南京、中国全域、朝鮮、台湾、沖縄---私らが 「虐殺」された先達を持つのか「虐殺」した先達を持つのかを問わず、あるいは、咬まれた魂なのか咬んだ側の目玉なのかによらず、魂と目玉が咬みあったまま 木っ端微塵に飛散したその現場から、私らが発祥あるいは転生したことは間違いないと思われる。ただそれを捜索し現前化させる力量も、それを認定しようとす る勇気も持ち合わせていないだけだ。そうであればこそ、「虐殺」はささいな姿となっていくどとなく反復され、可視化できないほどに常態となっている。

 タイトルにある「歌仔戯」とは、台湾の俗謡で構成された大衆向け歌劇のことである。日帝統治下にこの名称で呼ばれるようになった。
 

ヤポニア歌仔戯 阿Q転生

作/演出 桜井大造
広島 カフェ・テアトロ アビエルト
2008 12/12「金」 13「土」 14「日」

 

オペレッタ  
     ヤポニア歌仔戯 棄民サルプリ

作/演出 桜井大造

2009年 10月31日(土)11月1日(日)2日(月)3日(火)

6日(金)7日(土)8日(日)

東京 井の頭公園西園 特設テント
         井の頭公園野外劇フェスタ2009
 

 

〈演員〉
阿久津陽子
伊井嗣晴
瓜 啓史
太田なおり
阿花女 
桜井大造
志衣めぐみ
崔真碩
つくしのりこ
ばらちづこ
森 美音子
山田博達
リュウセイオー龍
渡辺 薫

総指揮  根岸良一
舞台監督  村重勇史
照明   2PAC
音効  新井輝久
舞台美術  栗 九里子
   舞台  田口清隆
   設計  宮本泰成
衣装   おかめ
     つくしのりこ
     田口ナヲ
     新井香代
     中山智絵
制作      
 野戦之月海筆子広島公演実行委員会
    今田珠美
     大槻オサム
     田中亮太郎
     タムラ・ド・ヒサシィ
     中山幸雄
     藤森利浩
     山口 望
     他

翻訳   胡冬竹
通信   濱村篤
     水野慶子

協働単位 台湾海筆子
     北京テント小組
     広島アビエルト

音楽   野戦の月楽団
     原田依幸

版画
 黄栄燦 1945年作 
横地剛「南天之虹」より
題字  長友裕子
写真   陳又維
宣伝美術  村重勇史
印刷 制作室クラーロ

★協力
独火星
「山谷」制作上映委員会
竹内好研究会
国立木乃久兵衛
台湾辛苦之王出版社

〈演員〉
渡辺薫、リュウセイオー龍、森美音子、ばらちづこ、

つくしのりこ、崔真碩、武内理恵、
志衣めぐみ、桜井大造、阿花女、太田なおり、瓜啓史、

伊井嗣晴、阿久津陽子

照明 2PAC、松尾容子 音効 新井輝久
舞台美術 長友裕子、中山幸雄、山本泰子、小林純子
舞台監督 村重勇史 舞台 永田修平、田口清隆
設計 宮本泰成
衣裳 裸の鋳型

通信 濱村 篤、水野慶子 翻訳 胡冬竹
制作 野戦之月制作部、押切珠喜
協働単位 台湾海筆子、北京テント小組
印刷 制作室クラーロ

協力 独火星、「山谷」制作上映委員会、竹内好研究会、国立木乃久兵衛
趙寿玉チュムパンの会、台湾辛苦之王出版社

音楽 野戦の月楽団、原田依幸、張理香
 

 

<野戦の月>が台北淡水河川原でテント公演「エクソダス」を行ってからちょうど10年が経つ。毎日昼下がりに決まって襲来する暴風とスコールで泥濘と化した土地に足をとられての舞台であった。

 公演終了直後、一人の台湾人老夫による「大日本帝国万歳!」という怒号とも賛辞ともつかぬ表現は、テントにいた全員に一瞬の判断停止状態を強いたが、す ぐに腹を抱える笑いの受粉に変わった。終幕直後の台湾人老夫の一発によって、「エクソダス」という芝居はテントの場を構成する全員の腑に落ちたのだった。 日本の貧しいテント芝居と台湾とを媒介したのである。
 かの老夫の乱調は、実はこの地域(東アジアの沿岸地域)の階調を示していたのではないか。近代史の波濤と波食、その乱調を表現し返すことで感受しあえる ユーモアがあるとすれば、この海域はある種の階調のうちにあるのである。もしそうなら、表現における協働、共同は可能である。
 その後<野戦の月>は、台湾人の仲間の参加を得て<野戦之月海筆子>となった。
 今年の4月と8月、台湾の海筆子は集団内集団<流民寨>を結成してテント公演「無路可退」を行った。日帝敗北=復興から白色恐怖時代の乱調期に、階調を もって行動した両岸人民をめぐる芝居である。北の台北から南の高雄への移動テントで、日本の野戦メンバーが裏方で参加している。
 また、今年の8月、日本の野戦メンバーもまた<蒼天空>という集団内集団を作り「八月――蒼穹のウルリム」を公演した。沖縄と朝鮮と日本の女たちの言霊を谺(こだま)が媒介していく詩劇である。

「棄民サルプリ」はこれらの行動・表現と連動して構想された。付け加えれば、来年に中国でのテント公演を準備している<北京テント小組>の動きとも深く関わっている。
 棄民――原義はともかくも、現在的には「50年前以上にもっと、立体的に不必要とされている者」――つまり私、という一人称単数は、海の壁をよじのぼっ て、わたしたちという三人称多数に変じることができるか。あるいは、サルプリ(厄解き)を舞いながら、日本という川の水系に黄海、琉球弧の海を招きいれ、 この土地と自身に取り憑いた「乱調」を哄笑高く洗い流せるか。
 転生した阿Q、ヘタな魚たちが寄り合って、棄民の物語が始まる。


 

「汎やぽにあ民話--フクビキビクニ譚」牡鹿石巻版

作●演出 桜井大造

2011年

9/21(水)    牧山市民の森 第二駐車場
9/22(木)    阿部喜一様宅 庭    

9/24(土) JAいしのまき渡波支店横 空き地
9/25(日)    石巻旧牡鹿公民館 駐車場
 

<演員>

ばらちづこ 森美音子 つくしのりこ 阿花女 許雅紅 

武内理恵 
志衣めぐみ リュウセイオー龍 瓜啓史 ロビン 渡辺薫

濱村篤 

桜井大造
(牡鹿石巻版のみ)台湾海筆子

照明 2PAC 
音効 新井輝久
衣裳 裸の鋳型
宣伝美術 春山えみ
通信 濱村篤 水野慶子 
印刷 制作室クラーロ
翻訳 李彦
後見 中山幸雄 遠藤 弘貴 伊井嗣晴 崔真碩
 太田なおり 阿久津陽子 
 
制作 野戦之月制作部 VCを支援する会・山形 押切珠喜
協働単位 台湾海筆子

協力 マダンの光
 独火星 
広島アビエルト
 「山谷」制作上映委員会
 クニタチ読書会
     国立木乃久兵衛 
     中国北京「臨」テント劇連絡会
     有限会社オサフネ制作所

音楽 野戦の月楽団 原田依幸 
生演奏 大熊ワタル楽隊(牡鹿石巻版のみ)

「汎やぽにあ民話--フクビキビクニ譚」牡鹿石巻版

通路が壊れた。これが初めてというわけではない。
すこし慣れてきただけで、とりわけ快適な通路だったわけでもない。
だが、なんらかの通路がなければ墓に向かうことができない。
墓も通路も世の中がつくるもので、その世の中は墓とその通路を必要とする人間という生がつくるものだ。

道はある。迷うほどに道はある。 ただ、どの道もたよりなくあんまり寂しい。
途方にくれた道の途上に、一ときの吹きだまりができる。
ひとりひとりが携帯してきた夜がその洞窟をつくる。
そこでは、すこしずつ鳴りはじめやがて響きあう記憶の群れと、
それに呼応する絞り出された脂汗のような言葉とが、
頭も四肢もないトルソーのような民話をつくる。

「汎やぽにあ」は水平を抱きながら、身をよじる土地だ。
通路の復旧の手を一時休めて、
私らのテント劇は、この土地に再生・創生する民話と民話を架線し、
互いを引き寄せながら、この途上の一夜に立ちつくす。

汎やぽにあ民話ーフクビキビクニ譚

作・演出 桜井大造

2011 東京・寿公演
10月22日 「土」 23 「日」

東京夢の島公園第五福竜丸前

10月29日 「土」   

横浜寿町寿町生活館前公園
11月3日 「木」 4日 「金」 

東京井の頭公園西園ジブリ美術館となり

 

 

 

2012年2月18日(土)19日(日)

野戦之月海筆子

 2012年冬・台北ーー「泛YAPONIA民間故事-摸彩比丘尼譚」

<演員>

ばらちづこ 森美音子 つくしのりこ 阿花女 許雅紅 武内理恵 志衣めぐみ リュウセイオー龍 瓜啓史

 ロビン 渡辺薫

濱村篤

桜井大造
(牡鹿石巻版のみ)台湾海筆子

照明 2PAC 
音効 新井輝久
衣裳 裸の鋳型
宣伝美術 春山えみ
通信 濱村篤 水野慶子 
印刷 制作室クラーロ
翻訳 李彦
後見 中山幸雄 遠藤 弘貴 伊井嗣晴 崔真碩
 太田なおり 阿久津陽子 

 
制作 野戦之月制作部 VCを支援する会・山形 押切珠喜
協働単位 台湾海筆子

協力 マダンの光
 独火星 
広島アビエルト
「山谷」制作上映委員会
クニタチ読書会
国立木乃久兵衛 
中国北京「臨」テント劇連絡会
有限会社オサフネ制作所

音楽 野戦の月楽団 原田依幸 
生演奏 大熊ワタル楽隊(牡鹿石巻版のみ)
 

2013年5月野戦之月海筆子

5月1日「水」2日「木」3日「金」4「土」5「日」
 「蛻てんでんこ」

作・演出桜井大造

「夢の島特設テント」

濱村篤、ばらちづこ、渡辺薫、森美音子、

崔真碩、阿花女、段恵民、武内理恵、

ロビン、志衣めぐみ、リュウセイオー龍、

春山恵美、桜井大造

『蛻てんでんこ』は「蛻」という町を物語世界とします。
そして、その町自体が主要なテーマとなります。

町をループする過去と未来の時間帯とともにテントの時間も流れます。

〈チープ・サウス〉地区にある古いデパートは大蛤の蜃気楼に飲まれ現在は蛻の殻ですが、「蝿の王」なる人物が買い取り、〈ビー・フライ〉という蜂の代行をする蝿や、医療用食用の蛆、美容用の蛭などが飼育されています。

また、〈サッド・ウェスト〉地区にはすでに用途不明となった「虹」という元公共施設がありますが、そこからは青少年たちが逃走を企てています。

〈キタ〉地区は不法投棄された廃棄物が堆積した荒れ地ですが、黄昏に〈黒い月〉がかかりヒトビト(裸虫)がばらばらに集まり焚き火を囲んでいます。

このような空間で、ヒトビトはそれぞれのトラウマと格闘します。しかし。トラウマはすでに〈未来〉のものでもありました......。

その他の注意事項など

 

【音楽】野戦之月楽団 原田依幸
【照明】2PAC マヲ
【音効】みりん
【舞台】中山幸雄 たお 許雅紅
【衣装】裸の鋳型
【印刷】制作室クラーロ
【翻訳】北京流火テント劇社翻訳部
【制作】野戦之月制作部 押切珠喜 村上理恵
【協働】台湾海筆子 北京流火テント劇社

2014年9月野戦之月海筆子
 「百B円神聖喜劇」

作・演出・桜井大造

9月21(日) 22(月) 23(火)
25(木) 26(金) 27(土) 28(日)
(24日休演)
東京夢の島公園第五福竜丸展示館前空地 

特設ドームテント

2012年冬・台北ーー「泛YAPONIA民間故事-摸彩比丘尼譚」上演

 2011年秋、東北石巻牡鹿半島被災地でうまれたテント芝居「汎やぽにあ民話ーーフクビキビクニ譚」は、タイトル を「泛YAPONIA民間故事??摸彩 比丘尼譚」に替えて、2012年2月に台北市南部の川原にある「渓州部落」(原住民アミス人集落)でテント公演されます。
 2000年代、野戦之月は台湾海筆子と様々に連携しつつ、時に共同で公演を実現してきました。昨年9月の石巻牡鹿版公演においても10名の海筆子メンバーが台湾より参加し、共同で「フクビキビクニ譚」を製作上演しました。
 ただし、今回の台北公演は、台湾海筆子メンバーが演員(役者)としては登場しない東京横浜版をもとに行います。海筆子メンバーは台湾公演のプロデューサー、裏方スタッフとしてこの公演を支えます。
 野戦之月が台湾に初めて登場したのは、1999年の夏、台北の西部三重にある淡水河の川原でした。

芝居の終了直後、舞台に飛び出した老人が、芝居への賛辞として「大日本帝国万歳!」という絶叫を、私らに贈ってくれました。
 その衝撃から13年、再び、日本人および日本在住者、日本語のみによるテント公演が、今度は台北南部の川原にある原住民アミス人集落で行われます。この 土地はすでに政府の再開発計画によって立ち退きを余儀なくされている場所です。長い抵抗運動の末、近年、立ち退き案の妥結が行われました。

野戦之月の今回 のテント公演を最後に、この土地は地形もろとも姿を変えます。山間の故郷を追われ都市へと流動化させられてきたアミス人が築いたなけなしの領土、そしてい ままた、この集落での暮らしの歴史は、いっさいの痕跡を残すことなく消え去ることになります。
 「フクビキビクニ譚」という芝居は、流動化を余儀なくさせられるものたちの土砂崩れ的な現場での最後の想像力の発動であり、その強制的な流動化を反転させて我がものにするための私らの術を探る芝居です。

いわずもがな、異郷台北において、私らは被災地から引き継いだ遺志と意志において、新たな「場」を発想、発見、発明しようとしているのです。

左のチラシを

クリックすると

百B円のテーマ曲が流れます。


演員
濱村篤 ばらちづこ 渡辺薫 森美音子 

阿花女 武内理恵 ロビン 
リュウセイオー龍 春山恵美 みりん 申源 押切マヲ 桜井大造

 

「百B円 神聖喜劇」についてーー
                                  桜井大造
 
 百円ショップに並んでいる品物の多くは舶来品である。はろばろと水を渡ってこのクニの都
会に漂着したものだ。多くの品物は目新しく、購買者たちに<暮しの夢>や<生活の理想>を
再帰させるように工夫がなされている。購買者はこのワンダーランドで値踏みを続けるが、や
がてどれもが凡庸な物体に見えてくる。
 だが凡庸さは品物のせいだけではない。再帰する夢や理想もまた凡庸なのである。そしてそ
れにも増して「百円」が完膚なきまでの凡庸さを品物と購買者に媒介する。「百円」という閾
値(いきち)が刺激でもあり限界をも設定しているのだ。
 これは都会における「時給八百円」(九百円でも千円でもいい)が、生産物と労働力を媒介
する際の凡庸さと同様であろう。「労働」が凡庸なのではない。「時給八百円の労働力」とい
う閾値から労働主体が逃れられないことが凡庸なのである。
 このクニの百円ショップの舶来品の多くは、中国の浙江省義烏(イーウー)市の卸市場から
運ばれてくる。百六十万種の品物が市場を埋め尽くしているという。単価はおおむね1人民元
(16円)以下である。このクニに並んでいる品数は大店でも6万種ほどだというから、烏市
場の品物のほんの一部である。現在、多くはインドネシア、インド、アフリカのバイヤーが買
い付けているらしい。汎世界的消費社会の到来だが、これに費やす原材料とエネルギー、労働
力はいかほどだろうか。(ちなみに、賃金上昇が甚だしいと日系企業などが危惧する中国の労
働者最低賃金は、現在時給にして「百円」程度だと推定される)そして使用済あるいは未使用
のこれらを廃棄するために要するエネルギーはどれほど だろう。

 このテント芝居では、百と円の間に「B」を挿入してみた。「B円」といえば、米軍占領下
の沖縄における米軍の軍票であり10年以上にわたって沖縄の唯一の正式通貨であった。軍票
は軍が物資や土地を調達するためのただの紙片である。沖縄人は戦後7回の通貨切替えに翻弄
され恒常的な生活苦を体験してきた。しかし、このテント芝居で挿入された「B」は沖縄の「
B円」のことではない。いわんや新自由主義経済の権化のようなビットコインのことでもない
。バリケードのB、バスタード(運の悪いやつ)のB、凡庸のBだ。凡庸の権化のような「百円
」の間に私らの「複数のB」を捩じ込むことで通貨は軋み、百円の閾値は震えるだろうか。
 このクニに漂着した百円小品は、百円の閾値ーその孤島に在住する私らの姿でもあるか。大
都会を埋め尽くすそれぞれの「百円孤島」はすでに限界集落の限界を超えて消滅に向かいつつ
あるのかもしれないが、ただ孤島苦から逃れ移住すればよいわけでもないだろう。外は専制君
主のような「情報の海」だ。情報弱者にも総動員令はかけられている。すぐさま藻屑となるか
もしれない。
 ダンテの「神聖喜劇」(神曲)は地獄と煉獄、天国を巡る物語だ。ダンテにかかれば私らの
大切な死者などはすべて地獄苦の住人となる。よし、百B円なる紙片を手にして、我らが死者
のデイアスポラの土地を訪ねてみようーー「地獄の沙汰も金次第」というではないか。
 

★テリーをおもって──『山谷』特別上映会

監督 佐藤満夫・山岡強一 ドキュメンタリー/16mm/カラ―/1時間50分

○日時:2015年7月18日【土】

場所Plan-B

・午後3時30分 開場

・4時~ 『山谷─やられたらやりかえせ』上映

・6時~
音と話/小間慶大、天麩羅劇場とその友達たち(伊牟田耕児、おかめ、吉野繁、西村卓也、サトエリ)、野戦之月合唱隊、リュウセイオー龍(踊り)、平井玄、他

・8時頃~ テリーに献杯

ひだりのぐぁらん洞スラムの

チラシをクリックすると

テーマ曲がながれます。

 

<野戦 15の秋>野戦之月海筆子テント芝居公演

 TOKIONESIAの森

ぐぁらん洞スラム・モール

 編 桜井大造

9月1日(火)~6日(日) 午後6時半開場・午後7時開演

東京 立川 昭和記念公園前空地ドームテント

入場料   前売予約3500円 当日3800円 

大学生留学生2500円 中高生1500円 小学生以下無料

演員 ばらちづこ 濱村篤  森美音子 渡辺薫  

阿花女 ロビン みりん リュウセイオー龍 春山恵美 

申源 押切マヲ 桜井大造

音楽 野戦の月楽団

   原田依幸

導演    桜井大造

舞台監督  おおやまさくに

照明    2PAC 

音効     羅 皓名

舞台    中山幸雄 瓜啓史 

美術    李彦 春山恵里 禮榕

衣裳    裸の鋳型

宣伝美術  春山恵美 みりん

後見   新井輝久 伊井嗣晴 崔真碩 つくしのりこ ゐぞう

印刷    制作室クラーロ

制作    野戦之月制作部 押切珠喜 たお

協働製作  台湾海筆子 北京流火劇社

協力    「山谷」制作上映委員会 

明治大学大学院丸川ゼミ 国立木乃久兵衛 独火星 

広島アビエルト 

プーロ舎 日本鉄構建設工業(株) 他多数の有志者

<囲み記事>

<15夏の野戦>『ぐぁらん洞スラム 正伝』

8月21日 <2015寿夏祭り>参加テント公演

 午後7時開演 寿児童公園 葬祭型テント(横浜市中区寿町寿生活館前公園)

 主催 2015寿夏祭り実行委員会  連絡 045ー641ー5599(生活館事務所)

「京浜東北線根岸線石川町駅下車5分」

 

 

 

 

8月23日 <隅田公園山谷堀広場>テント公演

 午後6時開演 隅田川川辺山谷堀広場 葬祭型テント

 共催 山谷労働者福祉会館 連絡 03-3876-7073(山谷労働者福祉会館)

地下鉄銀座線「浅草」駅下車 5番出口 徒歩12分/都営銀座線「浅草」駅下車 5A出口 徒歩12分/東武線「浅草」駅下車 徒歩12分

 

ぐぁらん洞スラム・モール」序文よりーー                       導演 桜井大造 

 

 メガシティいやギガシティ・トーキョーには、そのギガ(戯画)に隠れて「トキオネシア」という群島がある、らしい。その島々は地表に露出した黒いダイヤのように団塊として「トーキョー」に偏在し、あるいはガマのように浅い地中に点在している。島々の間は網膜から出血したような伏流水で、その毛細な運河を流民たちの小舟が頻繁に行き交っている、と言われる。「トキオネシア」は風景の寄り合いではなく巨大な空間そのものであるらしく、ヒトの目玉では把握することはできないようだ。最新鋭の3次元カメラを使用しても写せるのは「トーキョー」のカタチだけだ。そもそも空間感覚というのは体感的なものなので、空気の色合いや匂い、多重な音、シルエットなどが入り交じる質感でしか空 間は把握されない。となると、「トキオネシア」空間の全体像を知るのは飛び交う鳥たちか、絶えず流動し続ける「街友」(野宿者ともいう)の体感だけだろう。私ら居留民が通常その空間と出会うのはごく稀なことなのでその破片が記憶の傷跡として残るだけだ。 

「トキオネシア」はいくつかの森に分かれている、とも言われている。確かに「トーキョー」には「上野の森」や「神宮の森」、「コウキョの森」、「六本木森ビルの森」などたくさんのモリがある。しかし、これらはギガシティ・トーキョーの戯画あるいは劇場化された空間にすぎない。なかには住民のいるモリもあるようだが、過剰に装飾されているし生活空間のリアリティもないので、ヒトと共にある空間としてはひどく「荒廃」していると言わざるをえない。たとえば、「神宮の森」には巨大な亀が出現し、この森を制覇しようとしているらしい。2500億円もする豪華なガメラだが、かわりに老いた住民たち10棟のアパートは消え、この森のヒト族は完全に駆逐される。このガメラ君はじっとトーキョーが 水没する日の到来を念じている、という噂だ。 

 私ら「野戦之月」のテント芝居は、「トーキョーの森」ではなく「トキオネシアの森」に立つことになっている。とりわけ今回は「ぐぁらん洞スラム・モール」と呼ばれる場所だ。ここはトーキョー弁では「グランドスラム・モール」と命名され再開発され始めていた商業地域らしい。「グランドスラム」といえば「メジャー大会完全制覇」とか「満塁本塁打」などのスポーツ用語であるが、「巨大な貧民窟」と曲解することも可能だ。となると、トーキョーの「グランドスラム・モール」に該当するトキオネシアの「ぐぁらん洞スラム・モール」とはどのような場所であるのか。字義通りに、ヒトが駆逐され空っぽとなったかつての貧しい居住区だろうか? あるいは鳥たちや街友たちが感受している質感の ある空間、その空即是色が「制覇」「領土化」する意想外に豊かな遊歩道だろうか? いずれにせよ、ところどころ剥げ落ちたグランドスラムの戯画の隙間から、湧き水のように色彩や芳香、音色や光陰が湧き出す空間であることが期待されよう。 

 末期消費社会の最終期に生存する私らは、ギガシティの路上の伏流水に捨てられた流謫(るたく)する「空き缶」であるが、動物体という意味ではその空き缶(自分自身)を唯一の個的空間とするヤドカリのような存在体であるかもしれない。いやもはや、このような自己撞着の果てに、空き缶に残る一しずくの液体のようなつましい存在体に変じているかもしれない。だが、空き缶の暗がりにいる液状の自身を感覚するとき、同期して「なにものか」がぎっしりとそこに撓(しな)っていることに気づくのだ。それは「他者」というより「ワタシという戯画」に隠されてきた「なにものか」に違いないようだ。空き缶の中はすでにワタシだけのつましい私有地ではなくなっているのだ。居住を巡って「なにも のか」とのおしくらまんじゅう(ラグビーのモールのような状態)となる。空き缶はあまりに狭い。もはや「ワタシテ ナニ(ル)モノカ」という「格闘する多数体」に変幻してしまった私らは、居住可能性を求めて、空き缶のつましい個的空間から「ぐぁらん洞スラム・モール」に溢れ出る以外にはないのである。 

 このようにして私らは「がらんどう」に参集し、2つで一つのスラム(貧民街であり、かつヤドカリ族の制覇する地)を「格闘する多数体」(モール)の領土として形成する。 

野戦16の秋
野戦之月海筆子テント芝居公演
渾沌にんぶち

9月21日(水)横浜 寿生活館前 寿児童公園
      午後5時半開場・午後6時開演
      京浜東北線・根岸線 石川町駅 徒歩5分

 

 9月24日(土)いわき市 平廿三夜尊堂前(いわき市平十五町目2)
      午後5時半開場・午後6時開演
      常磐線いわき駅 徒歩 6 分 

9月27・28日(火・水)

東京 木場公園 多目的広場
      東西線木場駅 徒歩10分
      大江戸線清澄白河駅 徒歩15分
      都営新宿線菊川駅 徒歩13分
      午後6時半開場・午後7時開演

10月1・2日(土・日)東京 国立市 矢川上公園
   午後5時半開場・午後6時開演
   南武線矢川駅 徒歩 4 分 
   中央線国立駅南口より バス約10分
  (1番、4番乗り場 矢川駅、国立操作場、国立泉団地 行き)「矢川駅」下車 徒歩4分

演員 濱村 篤 ばらちづこ 渡辺 薫 森 美音子 ロビン みりん リュウセイオー龍 春山恵美 申源 

押切マヲ 楊 燦鴻 呉 亭儀 桜井大造

音楽    野戦の月楽団
      原田依幸

導演    桜井大造
舞台監督  おおやまさくに
照明    2PAC
音効      羅 皓名
舞台    中山幸雄 瓜 啓史 
美術    李彦 春山恵里 謝靖雯
宣伝美術  ロビン みりん
後見    新井輝久 阿久津陽子 伊井嗣晴 阿花女 志衣めぐみ 武内理恵 崔 真碩 つくしのりこ ゐぞう
制作    野戦之月制作部 押切珠喜 たお
協働製作  台湾海筆子 北京流火劇社
協力    テント公演を楽しむ寿の会 菩提院 さっちゃん 金土秀則 上村和子 水野慶子 「山谷」制作上映委員会 独火星 広島アビエルト 明治大学大学院丸川ゼミ 国立木乃久兵衛 プーロ舎 他多数の有志者


 

「渾沌」は中国の神話に登場する怪物で、六本の足と六つの翼をもつ姿形で「山海経」には表現されている。自分の尾をくわえてぐるぐるまわるが前に進むことがない。「渾沌」たる世界を司る四凶だが、どこが「凶」なのかはわからない。「荘子」にある「七日して渾沌は死んだ」は、老婆心から「渾沌」の目、鼻、耳、口に七つの穴を開け「渾沌」を殺害する寓話だ。自然(じねん)たる「渾沌」の心身は感覚器官を獲得して逆に死滅した、とする。ーー現在、私らの居場所(社会的基盤)は、古代の春秋戦国時代のパロディのような世界にあって、視覚情報を軸とする快活な「渾沌さがし(包摂)」と凄惨な「渾沌殺し(排除)」に満ちていると感じられる。末期消費社会の「個性主義」(個人主義ではない)は、自然たる存在としての「渾沌たる個」を切り縮め「感覚的個性」へと下方修正した上で、自己/他者を殺害するのではないか。ーー「にんぶち」は沖縄の発音で念仏のこと。現在のいわき市の僧・袋中上人が400年前の琉球王国に念仏を広め、その念仏踊りは「エイサー」となっていまに残る。

<野戦 17の秋>野戦之月テント芝居公演
「クオキイラミの飛礫   
ワタシヲスクエ!」
作●桜井大造
9月14日(木)~18日(月・祝)
      午後6時半開場・午後7時開演
      東京 井の頭公園西園文化交流広場(ジブリ美術館となり) 特設テント

料金   前売予約3000円 当日3500円 外国籍者・大学生2000円 中高生1500円 小学生以下無料 (二度目から2000円)
演員  ばらちづこ 森 美音子 
みりん 春山恵美 押切マヲ 
崔 真碩 渡辺 薫 ロビン 
リュウセイオー龍 申源 楊 璨鴻 
矢野玄朗 桜井大造
音楽●野戦の月楽団
  ●原田依幸
導演    桜井大造
舞台監督  おおやまさくに
照明    瓜 啓史 2PAC
音効    羅 皓名
舞台装置  渡辺 薫 小童 森 温 風間竜次
舞台美術  春山恵里 中山幸雄
宣伝美術  春山恵美 みりん
衣装    ヒグマエリカ 
五反田まり子
通信    韓氷 丸川哲史 
水野慶子
協働    海筆子16-18(台湾) 北京流火テント劇社(中国)
制作    野戦之月制作部 
押切珠喜 今泉隆子 たお
後見    新井輝久 根岸良一
協力    「山谷」制作上映委員会 明治大学大学院丸川ゼミ 
国立木乃久兵衛 独火星 
広島アビエルト プーロ舎 
他多数の有志者
 
<クオキイラミの飛礫
ワタシヲスクエ!>       
桜井大造

 今年の私たちのテント行動は、この東京井の頭公園での公演が3度目である。4月は北京市の3箇所にテント場が立った。公演主体は「北京流火テント劇社」だが、いつものように「野戦之月」「台湾海筆子」メンバーとの協働公演である。6月は東京明治大学にテントが立った。こちらは野戦之月と丸川ゼミとの共同試演会で今年で3年目となった。12月には台湾台北市で「海筆子16-18」主体のテント公演が予定されている。また、テントは立てなかったが、7月には済州島南部のカンジョンという村で「テントワークチョップ」が行われた。長期にわたる韓国海軍基地建設反対抗争の現場である。必然というか、銃を構えた歩哨の立つ海岸線の壁の前が「ワークチョップ」の広場となった。
 それぞれの土地では、テントの形状も芝居の内容もまるで違うものとなる。私たちのテント行動の基点は、その土地・クニに暮らすものが体感する苦(まれには快)である。それが直接的にその本人の苦とは限らないにせよ、自分の身体の周辺に偏在する苦を共振と共感をもとにいったん引き受けるのである。それを大鍋に入れて煮詰めるわけだが、その鍋に他の土地・クニの苦が入りこんでくるのが私たちのテント行動の特徴だ。鍋に熱を与えるのはもちろん観客であり、その土地・クニに固有のテント場である。
 クオキイラミは単に「未来記憶」を逆さまに読んだ造語である。未来記憶(あるいは展望記憶)という言葉は、明日以降の自身の行動や姿を現時点で計画し記憶することであるらしい。現在の日常現実はこの記憶を基本として移ろっていくようだ。そこにはやらねばならない仕事や約束が詰め込まれているわけだが、それを支えるのは「ワタシの希望」であろう。逆に言えば、「ワタシの希望」を再生産できないかぎりワタシはこの日常現実を快適に送ることはできないということになる。これが難しい。「ワタシの希望」を発信するのは「大脳」だが、それを再生産するのは生身の身体だからだ。ヒトの身体は周辺とつながることで身体であって、唯一無二の「ワタシ」のものではない。にもかかわらず大脳が希望するのは単体としての身体の増強、あるいは身体の消去である。要するにサイボーグ化かアンドロイド化を希望しているということだ。この希望に沿うことはできないーーこれはおそらく私たちの祖霊たちや将来の未生の子供たちからの呼び声であり、その呼び声は実は現存する「ワタシの喉仏」から発語されているようだ。ここに闘争点があるのかもしれない。
 戻ってみれば、このTOKIOネシアは「末人(まつじん)世界」の先頭にあると感じられる。そして末人の悲哀と絶望感を「ワタシの希望」が着々と上書しているように思われるのだ。「未来」というよりは「末来(まつらい)」が到来しているわけだが、さて私たちのテント場はこのTOKIOネシアでどのような対抗を出来させるだろうか。
<出演>
ばらちづこ 丸川哲史 森 美音子 雲隠始終郎 林 欣怡 みりん 
リュウセイオー龍 申源 小童 
三里敦 亭儀 楊璨鴻 押切マヲ 
矢野玄朗 桜井大造

<工作人>
作・演出 桜井大造
音楽   野戦の月楽団 原田依幸
舞台監督 おおやまさくに
照明   2PAC
音響   羅 皓名
舞台美術 李彦 中山幸雄
舞台道具 野戦之月舞台部 Doyoung Park ドンソク 風間竜次 森 温
衣装   野戦之月衣装部 楊 禮榕
宣伝美術 小童 みりん
翻訳通信 含氷
制作   野戦之月制作部 今泉隆子 押切珠喜
後見   伊井嗣晴 崔真碩 武内理恵 山口めぐみ 根岸良一 新井輝久 

共同製作 海筆子TENT16-18(台湾) 北京流火テント劇社
協力団体 山谷労働者福祉会館活動委員会 明治大学大学院丸川ゼミ 
済州島カンジョン「ムングループ」 
「山谷」制作上映委員会 独火星 
広島アビエルト プーロ舎
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<野戦18の秋>
野戦之月テント公演
「二つ三つのイーハトーブ物語」
第一部 
「堂々たるデク」

私たちのテント場は旅をしています。まるで難民のように。昨年秋、私たちのテント場は「クオキイラミの飛礫ーワタシヲスクエ!」を「野戦之月」を主体として井の頭公園で上演しました。そして今年の1月は「海筆子TENT16-18」(台湾)を主体として「世界是一匹陣痛的獣」を台湾の3都市で上演。続いて5月には「北京流火テント劇社」を主体として北京市内2カ所にて「小D・返故郷」を上演しました。6月は東京の明治大学で野戦之月と丸川ゼミを共同主体に4年目4回目の試演会「イーハトーブの鍵」を上演しました。また7月には済州島カンジョン村において「テントワークチョップ2」が「ムングループ」主体で行われました。いずれのテント場も、当該地域のテントグループを主体とし、そこへ各地域
のメンバーが参加、協働するカタチで成立しています。今回、野戦之月のこのテント場も同様です。野戦之月メンバーとその協働者を主体に、海筆子、流火、丸川ゼミ、ムングループのメンバーが参集します。私たちのテント場は、このような組織性の乏しい集団として、内なる難民の想像力の居場所を求めて、宮沢賢治の残した耳鳴りのような「イーハトーブ」の物語へと向かいます。

9月29日(土)30日(日)隅田公園 
山谷堀広場
(東京都台東区浅草)
10月6日(土)7日(日)8日(月・祝)
国立市矢川上公園
(国立市富士見台)
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